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【第三回目:荒野での叫び:神に見捨てられる】 神様の御手の中で  黒田 摂


 私は二代目クリスチャンで、キリストを頭でしか知らず、長年心に喜びがありませんでした。しかし、「私は赦しの必要な罪人で、私が、大好きなイエス様を十字架にかけたんだ」ということをそのまま受け止めることが出来た時に、「人生が180度変わる」救いの体験をしました。これは、誰から聞いた話でも、見たことのある出来事でもなく、私自身の体験、私と神様の関係の中で起こった特別で大切な経験でした。その後、神様をもっと知りたくて、神学校に進みました。

 私はこの時点で、日本で15年、アメリカで8年過ごしており、自分の内にある日本人としてのアイデンティティーとアメリカで培われたアイデンティティーが対立しており、その狭間で揺れ動く自分を感じていました。しかし、自分のアイデンティティーが「既に赦されている罪人」と明確な土台の上に立っている事に気づいた時、「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20)という約束で心の中のわだかまりは解消され、今まで何となく好きでなかった日本人への思いが起こり、周りに沢山いる日本人留学生に対する重荷が与えられました。彼らにイエス様を知ってほしい!と強く願うようになりました。

 そんな時、1992年の夏、現在私が奉仕をしている日本人クリスチャン・フェローシップ・ネットワーク(JCFN)の修養会があり、私は、他のクリスチャン留学生から良い刺激とチャレンジを受けることが出来たらと思い、母教会の友達と一緒に参加しました。こんなにも大きく祝され、成長させられた修養会はないと思えるほど、素晴らしい時を過ごすことができました。しかし、その修養会の帰り道、私が運転をしている時に飛び出してきたウサギをよけようとして交通事故に遭い、私が妹のように思っていた姉妹が亡くなりました。彼女は、この修養会で自分の人生の全てを神様に捧げる決心をしたばかりでした。

「どうして私が生きていて彼女が死んだんだろう。」「誘っていなかったら。」「運転を誤らなかったら。」「私が生まれてなかったら。」様々な思いがあふれましたが、どこにも答えはありません。自分が憎く、悔しく、悲しく、どんなに悔やんでもどうにもならないこの状況から逃げることが出来ませんでした。一番、いえ、唯一の頼りであった神様にさえ裏切られ、見捨てられたと思いました。

 ついこの間、神様がどういうお方かということを発見したばかりだったのに、もう、何もかもが信じれなくなりました。しかし、なぜか私の心の中には二つの思いがありました。それは、「亡くなった彼女を悲しませるような人生を送ってはいけない」ということと、「悪魔だけは喜ばしてはならない」ということでした。人の命を奪ってしまった私は、死んで楽になるというような選択はなく、苦しみながら生きるしかないと思い、自分の命を取ることも出来ませんでした。神様に対しては、「これが神様の『私を愛する愛し方』なら愛して欲しくない。もう、神様を信じない」と決心しました。亡くなった彼女の家族のことを思えば、これらの苦しみは耐えるのが当然だと頭では分かるのですが、苦しくて仕方がなく、誰かに助けて欲しくて、どうしてよいのか全く分かりませんでした。

 多くの方の祈りに支えられ、一年以上の時間が経ってから、「こうだったら」「なぜ」「どうして」という質問には答えはない、また、見つかっても無意味な答えでしかないということが次第に分かってきました。自分でありとあらゆる模索をしましたが、解決策は見つからず、苦しみの中で疲れ果ててしまっていました。「八方ふさがりだ、このままの苦しみを私は耐えることが出来ない。」と悩んでいたとき、見上げることをしなかった天が開いているような気がしました。

 もう、どこにも行く道は無いし、だめでもともとというような自暴自棄になっていましたが、もう一度神様にかけてみることに決心しました。今思えば、イエス様ご自身も私のために祈ってくださっていたのです。『しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』(ルカ22章32節)

† マキキ聖城基督教会