| ★ よい知らせをあなたに。 | |||
| 【第一回目:神の摂理(小学生のときに信じるに至ったこと)】 神様の御手の中で 黒田 摂 | |||
| 神の摂理:私の土台 神様の摂理とは、本当に計り知れないものです。私の名前は神の摂理という意味の摂です。男性の名前に間違われたり、節だと、黒田節になってしまうというデメリットはありますが、イスラエルの民のように、この名前には、深い意味を感じています。 私の人生においての神の摂理は、私の生まれた環境にまず見る事が出来ます。私は、牧師家庭の長女、5人兄弟の二番目(自称青レンジャー)として生まれ育ちました。父が献身をして、神学校で学びを始めた年に、私は生まれました。ですので、私は、いわゆるクリスチャン二世です。ある人が、「二世クリスチャンは、偽(にせ)クリスチャン?」と言いましたが、全く上手く言ったもんだと思います。特別な改心の体験もなく、人々の人生が神様によって180度変わることを目撃したり、置かれた環境を通し、イエス・キリストが私の救い主であることを幼い頃に自然に受入れはしましたが、決定的な何かが自分の中には欠けていました。 成長して行く中で、救われた喜びを体験している人達を見ながら、「私には何かが足らん。あんなに喜びないもん。」「私の人生、180度どころか、10度でも変わったのかな?」「やっぱり洗脳されてるんや!大きくなったらこれは違う神様やって思ったらどうしよう・・・」と真剣に悩んだこともありました。 小、中学校を通して、キャンプなどに参加し、そのたびに燃やされるのは良いのですが、帰ってきて3日も経つとその炎は消えてしまいます。惰性でしかないような、生半可な自分の信仰がいやで、求めはするのですが何をやってもダメでした。そんな時、洗礼を受けたら何かが変わるかも知れない、と思いましたが、子供ながらに受洗というのは厳粛な響きがあり、これからの人生、最後まで信じつづけることが出来なかったらどうしよう、裏切るぐらいなら初めっから信じないほうが良いのでは、と悩みました。 その時に参加したキャンプで、一学年上の友達が受洗したことを聞き、どのようにして決心に至ったのかを聞きました。すると、その子は、イザヤ書41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」を日曜学校の先生から教えてもらって、自分が信じれなくなっても、神様は、その義の右の手で堅く握って(イザヤ41:13)くれてて、決して離さないから大丈夫だと励ましてくれました。(これを読んでいる日曜学校の先生、子供達は、子供達なりに真剣に信仰のことで考え、悩んでいるんです。聖書の約束をしっかりと伝えてください!それと、就寝時間の後にこういう話しがなされている場合が多いので、少し話ししているのは大目に見てあげてくださいね。) それで受洗をしたのですが、やはり、3日と持ちませんでした。がっかりとした私は、開き直ることにしました。人の目が気になる私は、ぐれることも出来ず、表面的には模範的な「牧師の娘」を演じ、しかし、何をしても面白くない、皆が持っている救われた喜びを知らないクリスチャン生活を送っていました。ですから、当然、自分が面白くないと思っている教会に友達を積極的には誘いませんでしたし、聖書を読むこともしませんでした。「ただ、なんとなく。」「私がしないと誰がするの?」というのが私の信仰の継続力でしかなかったのです。 しかし、やはり子供です。10歳の頃にインドネシアから一時帰国中の宣教師報告で見せてもらった、チンパンジー二匹と肩を組んで写っているその宣教師の息子さんのスライドに魅せられ、将来は、医療宣教師になってジャングルの奥地へ行きたい!と思ったのです。(今思えば、宣教師というよりは、ターザンになりたかったのかもしれませんが。)富や名誉に全く興味がなかった私は、信仰的には飢え乾いていても、人の心を変える事の出来る神様の力を目の当たりにしていたので、宣教師というのはとても魅力的だったのです。そんな矛盾だらけで、何かが欠けたままの私のことを神様は全てご存知で、人生の次のステップを用意してくださっていました。 |
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| † マキキ聖城基督教会 |