「死んだらおしまいか?」

 マキキ聖城キリスト教会牧師 黒田 朔

 

「死んだらおしまいや・・。」と言う世界に私達は生きています。

どんなに成功しても・・・、どんなにすばらしい結婚をしても・・・、せっかくここまでがんばってやっとリタイヤをしてこれからというときに・・・「でも、死んでしまったらおしまいや。」

何度この悲しい言葉を聞いたことでしょう。確かに私達の現実はそのように見えます。イエスの弟子達でさえそうでした。イエス様は一人ぼっちの人を訪ねて励まし、病気を癒し、空腹の男達だけで五千人に食事を与え、のガリラヤ湖の嵐さえ鎮めるほどのお方です。「私達はイエス様のお弟子です。」と言うだけで弟子達は何かうれしくなるような、えらくなったような気がするほどイエス様は有名になりました。

 

ところが。そのイエスが逮捕されたと言うニュースが過ぎ越しの祭りの準備に忙しいエルサレム中に広がりました。弟子達はどうなることかとイエスの後を見え隠れしながら追いかけました。彼らの心には「人を助け、嵐さえ沈めたイエス様だよ、そのうち何かが起こる、きっと・・・。」しかし、あれよあれよと言うまもなく、イエスは鞭打たれ、裁判にかけられ、ローマの総督ピラトの前に引き出されてしまいました。

 

なんということでしょう。四、五日前に歓呼で迎えた人々の「十字架につけろ、十字架につけろ!」との叫びがイエスを釈放しようとするピラトの努力をかき消し、ついにイエスは十字架へと引き渡されてしまったのです。イエスは他の二人の罪人と共に十字架を担いで「しゃれこうべ」と呼ばれた処刑場に続く「ビアドロローサ」(嘆きの道)を歩きます。その後はご存知のとおりです。イエスの手足は横たえられた十字架の上に大きな釘で打ちつけられ、あらかじめ掘られた穴に立てられました。

 

体の重みで釘はイエスの手足を引き裂き血が流れ落ちます。それでも、人々はいいました。「エリヤが助けに来るかもしれない・・」イエスを十字架につけながら、何かを期待していたのです。

しかし、イエスの最後はあっけなくやってきました。苦しみの中からの祈りの最後に「完了した。」と叫んでイエスは息を引き取られました。

 

「死んだらおしまい・・」やっぱり、イエスも死んでしまったか、「死んだらおしまいだ。」弟子達は絶望し、大祭司たちは「これで一件落着」とばかりに安堵し、イエスの遺体を墓に収め、念のためにと洞穴の墓には石を転がし、封印をし、見張りの兵隊までを配置しました。

 

三日目、週の初めの日の早朝、イエスの遺体をもっと手厚く弔いたいと墓に着いた婦人達は驚きました。番兵が立ち、封印されていた墓が開いて、イエスの遺体は見つかりません。とんでもないこと、いいえ、すべての人々が願い、求めている復活が起こったのです。死は終わりではない、死のむこうに命の望みがある、イエスは甦えられました!

 

十字架で死んだイエスに心を縛られている人々に

イエスが現れ申されます。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ 24:25,26)

 

死の向こうにある望みを求めつつ、キリストの復活を待ち望もうとしないで悲しむ人々に「あなた方は愚かで、心が鈍い」とお叱りになったのです。どうしてですか。キリストは十字架の死を越えて甦ると聞きながら、信じず、悲しみ、死んだらおしまいの世界にとどまっているからです。

 

「死んでも終わりではない。」これこそ、福音です。「天国で君に会えたら」との本を残して天国に帰った飯島夏樹さんの召天3年目を家族で記念されました。ご家族にとって天国での再会こそが身近で、確かな望みであり、毎日の支えです。

 

イエスの約束「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 (ヨハネ11:25)

 

写真は 2008年3月23日に、ホノルルマジックアイランドビーチにて、執り行われた洗礼式の模様です。早朝6時に教会ファミリーが集まり、新しい命に生まれ変わる感動を分かちいあう。本当にうれしい瞬間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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