マキキ教会礼拝説教2008629 「弟子となった収税人〜マタイの自己紹介〜」

聖書箇所: マタイ福音書9章9節〜13節

 

これまでのみな様のお祈りをありがとうございます。黒田先生の代わりというにはおこがましくもご奉仕させていただきました。皆様にはこれほどに良くして頂きまして感謝申し上げます。新しい出会いや発見、経験をたくさん皆さんからいただきました。そして養って(!)いただいてありがとうございます。恵みも増えましたが、一緒に体重も増えてしまい、それらを日本へ持って帰らなければなりません。

どうぞこれからも主にある交わりを継続していただけるようにお願いいたします。ありがとうございました。

 

Why are you here ?  ( Al Pacino )

 これはある映画の中でのセリフです。CIAの上司役のアルパチーノという俳優が、新入エージェントに訓示するときのセリフです。なぜ、おまえたちはここにいるのか。社会的な名誉や高級車を手に入れるためだったら、CIAはふさわしくない。違う職業を選べ、というようなものでした。

 皆さんは、なぜここにいらっしゃるのでしょう?この時間を他のことに使えれば有効なことができるかもしれないではないですか?私が、クリスチャンとして、また牧師として、なぜここにいるのかの問いに答えを出せるとすれば、わたしはこの聖書箇所からと考えます。この礼拝で皆さんとご一緒に、弟子となったマタイへのイエスの招きを、このわたし自身への招きとしてもう一度受け止めなおしたいという願いもあって、この箇所より皆様と一緒に学んでまいります。

 

取税人マタイとイエスとの出会い

マタイの福音書9章9節には、その著者であるマタイが、イエス・キリストからの招きを受けて、イエス・キリストに従う者、すなわち、イエス・キリストの弟子となったことが記されています。

 9節前半で言われているように、マタイの仕事は取税人でした。

当時の取税人について知るには、ルカの福音書18章11節にあるパリサイ人の祈りがヒントです。神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

 この「ゆする者、不正な者」は、たまたま、そこに居合わせた取税人のことを意識して語られた“侮蔑表現”です。ユダヤ社会では、特に宗教的な立場からすれば、蔑(うと)まれた、差別的な扱いを受けていたといって良いでしょう。マタイはそんな取税人でした。マタイはきょうも「収税所」にすわって、そこを通過する商品に対する税金を徴収しています。

その取税人マタイにイエスが声をかけています。

イエスはそこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。 

 わたしについて来なさい。というのは、いっしょにアラモアナ・ビーチあたりまで散歩に行きましょうという、お誘いの言葉ではありません。これは、イエスがマタイを自分の弟子として招いていることを意味しています。

 

このイエスの招きに対して、マタイはすぐに立ち上がってついていくんですね。いくら声をかけてくれたのがイエスといえども、こんなに突然に人は応答できるのだろうか?日本では、知らない人には声をかけられてもついて行っちゃいけないって言われます。

もしかしてイエスが弟子にふさわしい他の人に声をかけようナンテ思っていたのに、間違って取税人マタイに声をかけてしまったのではないか?などとも考えてみました。しかし何度読み返しても、イエスがマタイに向かってわたしについて来なさい。と言われたのでした。

 

この出会いが不思議なんです。当時の社会の中では、あり得るはずもない出会いだからです。イエスは聖書の教師という立場でもありました。そのイエスが、罪人と一緒にされている「収税所にすわって」いるマタイの素性をご存知の上で、確かにマタイが取税人であることを承知の上で声をかけられ、弟子として招かれたのです。あり得ないことでした。

 

 私たちはイエスであればこういう人たちにも声をかけるだろうと勝手な予測と期待を込めて読んでいますので、別に違和感がないのですが、当時の常識からいうと信じられないことでした。

もしかして、マタイもイエスがどういう方であるかを何らかの形で知っていたでしょうか。収税所というのは、町の幹線道路にあったそうで、しかもここが北部のカペナウムのような町(イエスの活動地域)だとすれば、税金を徴収していたマタイのもとに、当然イエス・キリストに関するさまざまな情報がこの幹線道路を通って入ってきていたはずです。 

マタイがイエス・キリストを救い主(メシヤ)であると多少なりとも知っていたのかもしれません。

 

しかしです。何らかの情報を得ていたとしても、知っていることと、すぐにイエスに従っていくこととは別問題です。私たちもそうですね。イエスを知っていることと、従っていくことは違います。仮に、マタイが律法の教師に教えを請いたいと思っても、取税人には誰かの弟子、律法の教師の弟子となる資格がないのです。取税人は宗教的に誰かの弟子になってついていくような立場にないのです。

そんなことをいわれるまでもなく、取税人である自分が、ユダヤ社会の中でどれだけ神から遠く隔たった所にいる人間か、実際のところもよく分かっていましたから、たといイエスのことを知っていたとしても、自分からその方についていくなどとは考えられないことであったのです。

 

 そうしますと、そのマタイに、イエス・キリストがわたしについて来なさい。と、お声をかけられたのですが、それは、“突然”であると同時に、それは余りにも“意外”なことでした。マタイにとって自分のような取税人に向けて語られたイエスの招きの理由が、とても理解できなかったはずです。

マタイの決心

それでも、すると彼は立ち上がって、イエスに従った。とあります。もうこれは、彼の理解とか、納得とか、世間体とか、そんなものを超えた“マタイの決断、決意”としかいいようがありません。

ルカの福音書5章28節では、「何もかも捨て、立ち上がって」と、マタイが「何もかも捨て」たことが記されていて、さらにルカが「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをした。」とマタイの決意が強調されています。

 

この強い決意のわりにマタイは、自分自身のことをごく控えめにしか記していません。

ルカ福音書が「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」と記しているところを、マタイ福音書でマタイ自身は「すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」と記しているだけで、自分が捨てたものがあることには触れていません。

 また、ルカが「そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをした。」と記していることを、マタイ自身は「イエスが家で食事の席に着いておられるとき」とだけ記しています。

それが「大ぶるまい」であったことに触れていないばかりか、それが自分が開いた宴会であることも、はっきりとは言っていません。(ただし、原文では「家」に冠詞がついていますので、その「家」がマタイの家であることが分からないわけではありません)

マタイの決意とは、自分のしたことを目立たせないようにして、もっぱらイエス・キリストに焦点を合わせていること。また、すべてはイエス・キリストの一方的な恵みによることであって、自分自身のうちに何かがあったから弟子となるように招かれたのではない、としっかり受け止めている彼自身の証しが見て取れますね。

そんな控えめな書き方をしているマタイのことを、わたしは本当に尊敬します。自分のことをすぐに誇らしげに表現してしまいやすいわたしに比べて、「マタイ、おまえはいい奴だなあっ」て思えるのです。

 

このように、彼の決断は、まず第一に彼にとっては神(メシヤ/イエス・キリスト)から招きを受けるに価するものではないことを、十分に分かっていた、わきまえていたということです。

 10節で言われていることにもそれが表われています。

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

 つまり、自分はこの収税人や罪人と呼ばれる連中の一人であることを公言してはばからなかったのです。誰かと食事をともにすることは、その人と親しくお付き合いしている、その人の仲間であることを意味しています。マタイは自分がどういうものの仲間であるかをわきまえていました。

 

 次に、彼の決心は、イエスのことばへの素直な(シンプルな)信頼でした。

食卓に大勢の「取税人や罪人」たちを招待したことは、イエスという方は、俺の仲間を呼んできても大丈夫な方だ、と彼は感じたので仲間を呼んだのでしょう。それは、自分を招いたイエスは本心からそう願ったこと、自分のような者をも召してくださろうとしている、というイエスのおことば(招き)の事実に信頼して応答しているのです。

 

みなさん。もしみなさんがイエスに声をかけられたとしたら、どういう態度を取るだろうか、想像してみてください。ある人は、回りが気になって応答できないかもしれません。ある人はまた、もしかして「どうだ、おれはイエスの弟子だぞ」みたいな感じで意気揚々としてしまうかもしれません。マタイは周りを気にしてオロオロすることもなく、逆におれはイエスの弟子だから、俺はおまえたちのような連中とは付き合わない、などというような態度もマタイはとらなかったんですね。

 

かつてのわたしは、自分を大きくしてくれる人にはついていく、しかし、そうでない人との付き合いは不要、いや、邪魔なものだと思ってた時期があるんです。そんな付き合いの中でも、心の中では、そういう人に俺は認められているんだろうかというような不安を抱えながら、それを隠してついていきました。でもこれって、こういう思いは、クリスチャンになってからも、なかなか消えなかったんです。

数年前に、私の友人が表参道で誕生日パーティをするから来いって誘ってくれたんです。いい年こいて、誕生日パーティもあるものか、なんて思いながらも、イタリア・レストランを借り切るということなので、ほいほいと出かけていきました。そのレストランを見つけ、お店のドアを開けると、すぐの両側に上下黒の革ジャンに銀色チェーンがジャラジャラ、サングラスの男性数人が「ようこそ」とお出迎えです。ぎょっとして、わたしは「間違えました」と戻りかけて、「でもここだよな」ともう一度ドアを開けました。・・やっぱり同じ光景・・・・。

お店の中には誘ってくれた「彼」がいました。しかし、入ってみるとこれまた異様な感じで、あちこちにいくつもグループができてるんですが、あるグループは「クスリ」(身体によくないクスリのことですよ)をしているっていう風の十代の男女。あっちに目をやると、同性(だけ)が大好き、という「オトコ」グループ。こっちに目をやると・・・っていう具合でした。さあて、どのグループに入ろうかと悩んでいますと、その「彼」がやってきてわたしにこう言いました。

「おまえは牧師だろう?ここに入ってくるときどんな思いがした?」 まるで、この私の心の中を知って、話してるかのような質問です。「おまえは牧師だろう!聖書から敵を愛せよとか、隣人を愛せよとか言ってんだろう?!そのおまえがここに来てまずどんな思いで連中を見た?」 

実は、わたしはドアが開いたときから、上下革ジャンの、チェーン・ジャラジャラ、サングラスを見たとき、ここは俺の来るところじゃなかったかな、なんて思ったんですよ! どこかに、この連中とおれは違う、って思った。本当は何も違わないくせに、違うように勝手に思い込んでいる俺がいました。 牧師だから?クリスチャンだから?わたしは彼に心の中を見透かされてたんです。でも「彼」にぎゅっと肩を抱かれて(わたしは彼とその気はないですよ)、涙が止まりませんでした

 

みなさん、この話は私が牧師になってからの話ですよ。つい数年前のことですよ

そんな私は、マタイに感動しました。彼はカッコをつけて、さも俺は違うぞ、ナンテ態度をとっていないんです。昔の仲間、嫌われ者の仲間をイエスに紹介し、周りの目を気にしていない。自分は彼らと違うなんてそぶりも見せない。これっぽっちも考えていない。

 

変わらないイエスキリストの恵み

さて、方や宗教家のパリサイ人。このマタイの宴会に際してイエスの弟子たちに文句を言いました。イエスに直接言わず、そして宴会を開いているマタイにでもなく、イエスの弟子に質問しました。パリサイ派のいやらしさを感じる声かけです。

これで困るのは誰でしょう。はたと困ってしまったのは、実はこの宴会を開いたマタイ本人ではなかったでしょうか。マタイは計算抜きに仲間を招こうとしていたんでしょうから、気にしなきゃいいといえばそれまでですが・・・。けれども、自分は良いんだけれども、マタイとしてはイエス・キリストが非難されるようなことになってしまった。しかもイエスの弟子たちに非難の矛先が向けられたのですから、まずいと思ったでしょう。「お前が仲間を招かなかったらこんな風にならんかったんじゃ」みたいに。

 

ここで、さすがなのがイエス様です。イエスはパリサイ人のいやらしい質問をしっかりと聞いて、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 とお答えになりました。

 イエスは、マタイが用意した宴会に出席すれば、ご自身がパリサイ人たちから厳しい非難を受けることになるということをご存知であったはずです。イエスにとって、マタイの信仰に応えて、ご自身の恵みを貫き通すことは、ご自身の身に非難を負うことを意味しています。しかし、それを厭うことはありませんでした。さらに言いますと、それがイエス・キリストにとってどんなに重荷になることであったとしても、イエスは、ご自身の恵みの原則を貫き通してくださいます。

 それがどれほどまで貫き通すかと言いますと、ご自身の恵みにあずかる者のために、その身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださるまでに、ということです。

イエスは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」という、ご自身の言葉の通りに恵みを最後まで貫き通されて、十字架にかかって死なれたのです。

 

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

とのおことばは、それがパリサイ人たちの心を動かした形跡はありません。しかし、マタイはその言葉を記憶し、福音書に書き記しました。パリサイ人は自分には関係ないこととして抜けて行ったのでしょう。マタイも「えっ、オレが病人?罪人?」なんてとぼけずに、その通りと聞こえたんでしょう。マタイの心にはしっかりとのこったイエスのおことばだったのです。

 

マタイを召してくださったイエス・キリストのこの一方的な恵みは、マタイだけに特別に与えられたものではありません。イエス・キリストの恵みの原則は、今日も変わることがない原則です。それは、今日の私たちにとっても同じことです。

 

私自身しばしば思い知らされることですが、私のような人間の「主」でいてくださることが、イエスにとっては得になるどころか、どれほどの重荷になることか分かりません。私はしばしば、イエスのみこころに背いて、主を悲しませてしまいます。自分でも自分が赦せなくなることがあります。それでも、イエスは私の主でいてくださいましたし、これからも、私の主でい続けてくださいます。

 どうして、そのようなことを言うことができるかといいますと、イエスは、私たちがどのようなものであるかを初めからご存知であられて(マタイを知っていたように)、私たちの主となってくださったからです。そして、私たちの過去と現在と未来のすべての罪を完全に贖ってくださるために、十字架にかかって死んでくださり、私たちを私たちの罪のもたらす死と滅びの中から救い出してくださったからです。

 

わたしは映画が大好きで、だいぶ前の映画に「踊る大捜査線〜レインボー・ブリッジを封鎖せよ〜」という刑事映画を何度も見ました。そうしたら、ちょうど機内の上映リストに載っていたんです。また観てしまいました。その主人公の織田裕二のセリフが大好きなんです。

「事件は現場でおきているんだ。会議室じゃない。」

確かに、事件や問題は現場で起きますが、同時にこう言うこともできます。「主の救いも現場で起きてるんだ」と。ちょうどイエスが収税所でマタイに声をかけたように、マタイの家へ出向いたように、その現場で出会ってくださるのです。

みなさんが現場で苦しいと感じ、無力感に襲われ、自分の存在や奉仕のゆえに、イエスの栄光が辱められるという風に感じるその現場でこそ、逆にイエスの救いと恵みは明らかになるのです。救いと恵みが現れるのは、その現場以外にはありえないのです。

 

 私たちは、このイエス・キリストのもとで、ご自身のみことばに示されている恵みを、イエスは私たちに対して貫き通してくださっている、と確信をもって告白し、その罪の現場でこそイエスを迎えて、生き、大勢の人にイエスの恵みをお伝えするようにいたしましょう。